2009年11月29日日曜日

巨龍―アフリカを駆ける

「ZTE」という中国の携帯電話製造・販売企業がアフリカへの進出を加速している。

ZTEはエチオピア政府から、エチオピア国内における独占販売権を取得した。
エチオピアの貧困地域である農村部へもアンテナを整備し、エチオピア全土のネットワークを完成させた。
交通の便の悪い農村部へのネットワークの整備は、他の先進国は試みたもののその困難さゆえに断念してしまった。
しかしZTEは人力のみを頼りに、農村部の協力を得ながらこの壮大なプロジェクトを成功させた。

中国はなぜこれほどまでにアフリカ進出にこだわるのか。
それは、アフリカの豊富な鉱物資源の利権を狙っているからである。
中国政府は国内企業のアフリカ進出を手助けするために、これまでよりも頻繁にアフリカを訪れるようになり、アフリカ政府に働きかけてきた。
その成果の一つが、ZTEの独占販売権の獲得なのである。

金融危機後のドル不安から、世界中に余ったマネーは資源へと流入している。
金の取引価格は史上最高値を記録した。
携帯電話の世界的な普及によって、その原料となるレアメタルなどの価格は高騰し、コンゴ共和国などにおいてはレアメタルを巡って紛争まで起きている。

中国は、銅などの国家備蓄を行うことを表明した。
それに伴い、ロンドン金属市場における銅価格は高騰し、それに関連する資源価格も高騰した。
いまや、銅の価格は中国が決定しているのである。

更に中国は今後のアフリカ9億人市場の発展を見越し、先手を打っている。
中国のアフリカ地域への総投資額は既に年間80億ドルを超える。

ザンビアの政府関係者が、中国の不動産会社を訪れた。
ザンビア政府関係者が言った言葉は、こうであった。
「どうぞザンビアへいらっしゃってください。こちらには、北部の鉱山を差し上げる準備があります。開発をするかどうかはあなた方次第ですが。ぜひともザンビアで開発をなさって、地元の住民に雇用を与えて下さい。」

21世紀に復活した古の巨龍は、アフリカを駆ける。
日本は、古の巨龍とどう向き合うのか。
日本に残された選択肢は、「食うか、食われるか」ではない。
「食われるか、共存するか」である。

2009年11月26日木曜日

地産地消から日本の農業を考える

東京八王子の道の駅で、地元農家の生産した野菜の直売所が大繁盛している。
この直売所の年間来客者数は約106万人、総売上額は10億円を超える。
平均にして1日約3000人のお客が訪れ、1人当たり約1000円をこの直売所で消費していく計算になる。

日本の農業の衰退が叫ばれている。
カロリーベースで約40%しか自国で供給できていない日本の農業は、異常気象や有事の際に国際貿易が機能しなくなってしまった場合のリスクの観点から食糧自給率の向上が必要不可欠である。
しかし少子高齢化による農業人口の減少や、補助金政策によって競争力を失った日本の農業は、その回復に向けた道はいまだはっきりしない。

そういった中、今注目を集めているのが地産地消の農業モデルである。
「地元で作られた農作物を、地元で消費する」
この思想を実現化した一つのモデルが、野菜直売所である。

これまでの農家は農作物を生産することのみ考え、決められた量を生産さえしていれば農協が引き取ってくれるので、販売まで考える必要は無かった。
しかし、野菜直売所では旧来の構図が全く適用されない。
農家は生産量を自分で決め、野菜直売所まで自分で農作物を運び、陳列し、値段を決める。
消費者は生産者の顔が見えるので安心して農作物を購入でき、農家はそれに応えられるように丹精を込めて、責任をもって生産を行う。
これが地産地消型の農業であり、これからの日本の農業が目指すモデルになり得る。

コメを巡る日本の農政も、地産地消型の野菜直売所に学ぶところが多いのではないだろうか。
日本のコメ農業が衰退した最も大きな原因は、全農や農協による生産と消費の隔離にある。
政府による減反政策によって、日本の農家は約4割の生産を減反している。
この4割の生産を喚起するだけで、日本のコメ農業の状況は一気に好転する。
しかし国内のコメ需要は不足しており、このままの状況で生産のみを拡大したら需要が追いつかずコメ価格は低下し、農家は採算が採れなくなってしまう。
日本の農業にはまだまだ供給力余剰がある。
そんな今こそ、供給面ではなく需要面からのアプローチが必要なのである。
これからの日本の農業は、消費者の需要が引っ張っていく。
経済学における 「セイ法則」 とは逆の主張になるが、「需要があるところには供給が生まれる」 のである。
具体的でないのであまりこの言葉を使いたくないのだが、今の日本には、農業モデルの 「抜本的改革」 が必要である。

2009年11月22日日曜日

学力低下問題の虚実

若者の学力低下が叫ばれている。

新聞、テレビ、雑誌などの様々なメディアによって、ゆとり教育をその原因とする学力低下問題が報道され、その頻度があまりにも多いので、我々国民は「学力低下」問題を既成事実として受け入れ、その本当の原因が何か、そして実情は何かについて、深く考えることはなかった。
マスコミの報道によって、いわゆる思考停止状態に陥っているのである。
しかし、学力低下問題は本当に起こっているのか。
そしてもし起こっているのならば、その原因、真相は何か。
学力低下問題について考え直すのは、今が最後のチャンスである。
なぜならば、この学力低下問題が報道されている通りそのまま真実であるとするならば、日本の将来は真っ暗であり、今がその真っ暗な将来にかすかな光を照らす最後のチャンスであるからである。

大学教授などの多くの教育従事者が、「最近の若者の学力は低下している」 「こんなことも分からない学生がいるのか」 「ゆとり教育のせいで学生はバカになった」などと、悲鳴を上げている。
その人数たるやあまりにも膨大な数なので、少なくとも現場の教育者である彼らの 「主観的」 判断においては学力低下問題は起こっているようである。
重要なのは、その主観的判断の裏に隠れた本質であり、「客観的」 事実としての学力低下問題とはどういったものなのか、考えてみる必要がある。

『学力低下は錯覚である』の著者、神永氏は、以下のような例を使って学力低下問題の本質を浮き彫りにしてくれた。

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もし今仮に、日本人の大学受験生が15人(15人の学力は、上から5分の1ずつ、つまり3人ずつの同学力のグループ5つに分けられる)しかおらず、大学はA大学、B大学、C大学の3つ(各大学の定員は3人ずつで、学力はA大学が最も高く、続いてB、C大学とする)しかなかったとしよう。
では今この状況で入学試験が行われたらどのような結果になるか。
試験でどんでん返しが起こらないとすると、最も賢い3人がA大学に合格し、次の3人がB大学、次の3人がC大学に合格することになる。

では続いて、少子化によってこの15人の大学受験生が10人に減った場合、どういったことが起こるのか。
ここで、受験生の学力の分布は先ほどの場合と同じ(上から5分の1ずつ、つまり2人ずつの同学力のグループ5つに分けられる)であり、大学の定員も変わらずに3人ずつであるとする。
この状況で入学試験が行われたらどのような結果になるか。
最も賢いグループに属する2人がA大学に合格し、更に最も賢いグループよりも学力の劣る2番目のグループの学生のうちの1人がA大学に合格することになるのである。
そしてB大学については、2番目に賢いグループの1人と、3番目に賢いグループの2人が入学することになる。
C大学についても同様のことが起こる。

学力低下の問題とは、客観的な数字で考えると、こういうことである。
つまり、これまでと高校生の学力レベルが全く変わらなかったとしても、大学の入学定員を減らさなければ、大学志願者数が減るごとにどの大学においても学生の学力は下がる。
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これが学力低下問題の現実である。
しかし私は正直なところ、実際に学生の学力が低下しているかどうかということはさほど問題ではないような気がする。
というのも、大学で学ぶいわゆる高等な学問というものは、実際の社会に出て活かせる機会というものは一部の専門家などの場合を除いてほとんど無いからである。
では何が問題なのか。
それは、今の学生の多くが「ゆとり教育」を隠れ蓑にして自分の学力の低さを肯定すること、自分の至らなさの責任をゆとり教育に責任転嫁しているということである。

神永氏は、自身が数学を教える大学において起こったある体験を綴っている。

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私はある学生があまりにも初歩的なことを理解していなかったので、落胆して「こんなことも分からないのか・・・」とつぶやいてしまった。
その瞬間、私は言ってはいけないことを言ってしまったと思い、その学生を傷つけてしまったのではないかと正直焦った。
すると、その近くにいた学生がこう言った。
「俺たち、ゆとられちゃってますから。」
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これが一連の学力低下問題において最も由々しき問題であり、日本の将来を真っ暗にする最大の原因になり得る。
自分の至らなさの原因は全て自分にあるのであり、全て自己責任で片づけるくらいの気概がなければこれからの困難な社会は生き抜いていけるはずがない。
これからの日本は、これまでの日本とは違うのである。
これまでの日本は成長してきたので、例え自分が頼りなくても国全体が成長していることの恩恵を授かれたかもしれない。
しかしこれからの日本は間違いなく中国やインド、ブラジル、韓国、シンガポール、ベトナムなどの新興国と競争していくことになる。
グローバル化した時代には国境がなく、「個」としての国家の性格は薄らいでいく。
そういった中、頼りになるのは「個人」としての「個」である。

学力低下問題が浮き彫りにしてくれたのは、若者の客観的数値としての学力低下ではなく、自分の問題を自分の問題として捉えられない若者の責任感の喪失であった。

2009年11月21日土曜日

情報無価値時代を生きる

ITやインターネット技術がここ10年ほどで急速に発達し、これまでは手の届かなかった情報がいとも簡単に手に入るようになった。
キーボードを数回叩いてエンターキーを押すだけで、かつては多くのコストをかけることでやっと手に入れることができたような情報を、家に居ながらにして手に入れることができるようになった。

この変化はインターネット回線というインフラの発達に起因するところもあるが、最も大きな要因は検索技術の進歩である。
その立役者となったのはGoogleである。
「もし世界政府というものがあったとしたら、その世界政府がやらなければならないことは全部自分たちでやってしまおう」
それが彼らの掲げる企業理念である。

Googleは世の中に存在する全ての情報、デジタルもアナログも含めた全ての情報を一つのデータベース上に集約し、全ての人が利用できるようにすると宣言している。
テキスト情報・動画情報・地図情報・書籍情報・会社情報・ドキュメント情報・音声情報・個人情報・遺伝子情報など、挙げ始めたらきりがないが、これらの情報全てを集めるのがGoogleの使命だと、シュミットCEOは言っている。

ではもしそういったことが、完全ではないにせよ部分的に実現したとすると、一体どういったことが起きるか。
情報はネットワーク上で誰もが対等に入手できるようになるので、「自分だけが」 「彼だけが」 「あの教授だけが」 「先生だけが」持っている知識というものがこの社会からほとんど消えてしまうことになる。
これまでの知識人の定義とは、「みんなが知らないことを知っている人」であったが、そういった知識偏重型の人間は、Googleによって無価値化されてしまうことになる。

となると、これまでのような「知っている知らないか」を重視する詰め込み教育はその存在意義を問われることになる。
また、そういった知識偏重型教育を受けてきたほぼ全ての日本人は、その価値観の大幅な転換を迫られることになる。
これからの社会に求められるのは、溢れる情報を独自の価値観という尺度をもって判断・取捨選択し、加工し、活用する能力である。
それができなければ、いくら偏差値が高かろうと「その他大勢」で終わってしまうことは目に見えている。

無価値化した情報を如何にして価値ある情報に昇華させるか。
それがこの情報無価値時代を生きる上での一つの指針になる。

2009年11月19日木曜日

KYと偏差値至上主義の相関関係

空気が読めない=KYという言葉が一昔前から流行っている。
KYという言葉がなぜ今になってこんなにも流行りだしたのかを考えると、今の日本について色々と見えてくるものがある。

まずは言葉の定義から始めよう。
「K」にあたる「空気」とは一体何を表しているのであろうか。
勿論「気体」としての空気ではなく、ここでは「自分を取り巻くもの」を表す。
具体的には「その場にいる他者」そして「自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気」のことを示していると考えられる。

では続いて、「Y」にあたる「読めない」とはどういうことを表しているのであろうか。
勿論「本を読む」などの「読む」ではなく、ここでは英語の「grasp」つまり「把握する」が適当であるかと思われる。

これで「K」と「Y」の定義は完了したとして、これら二つの意味を統合してみることにする。
つまり「KY」とは「自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気を把握できない」という意味になる。
これは一般的にされている解釈であり、この点については異論は無いかと思われる。

では、なぜ今、このような言葉が流行っているのか。
それが問題である。

私が思うに、その最も大きな原因は偏差値至上主義の教育である。
極論すれば、偏差値至上主義の教育における唯一の評価基準は偏差値であり、それ以外の要素は評価対象とはならない。
人間として成長していくために必要不可欠な対人力、コミュニケーション力、プレゼンテーション力、交渉力、度胸、勇気、優しさ、思いやり、ユーモアのセンス・・・
こういったものは評価の対象にならないのである。
そうなると、偏差値だけを追い求める若者にとってはそれらのものは不必要になる。
結果、社会には「KY」という定義に適格な人間が増え、「KY」でない人は「KY」の人に出会うたびに、当人に向かって「あなたは自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気を把握できない人ね。」ということが面倒くさくなってしまい、このような造語が形成されたのかもしれない。

勿論、以上のようなことはあくまでも仮説であり、実際に上に述べたような因果関係が存在するとは思えない。
しかし、あながち間違ってはいないような気がするというのが、実際の気持ちである。

なぜならば、私は京都大学においてしばしば「KY」に出会うからである。
東京大学と京都大学は偏差値至上主義者の巣窟である。

ある授業においてのことである。
これは京大に限ってのことではないかと思うが、KYの一例としてあげようと思う。
教授によって発言を促された学生は、もごもごと一人で何かを言っている。
勿論何を言っているか、教授を含め周りの学生も分からない。
教授が「もう少し大きい声で話してくれますか?」と言っても、一向に彼の声が大きくなってくれない。
恐らく彼にとって、「発表する」ということは「伝える」ことではなく「声を発する」ことであり、声さえ発すればそれで十分であったのだろう。

また他の例をあげてみよう。
ある合同企業説明会においてのことである。
某総合商社の演説が終わり、質疑応答の時間となった。
その時おもむろにある学生が手を挙げたのである。
人事担当者はその学生にマイクを渡した。
その瞬間、彼のマシンガントークが始まった。
そこはまさに彼の独壇場であった。
その会場には他の学生も100人ほどいるにも関わらず、彼はひたすら頭でっかちの持論を展開したのである。
それはあたかも、カラオケにおいてマイク一度握ったらなかなかその手を放さない「ジャイアン」的行動であった。
彼にとって質疑応答は言葉の「キャッチボール」の場ではなく、自分の知識を披露する「ステージ」であったのだろう。

このようなことが頻発する京都大学。
キャンパス内を歩いていてもしばしば見かける常識不保持者。
日本の最高学府がこのような状況では、税金を払ってくださっている日本国民に申し訳が立たない。
日本の最高学府は今危機的状況である。

2009年11月18日水曜日

飢餓する日本

2008年、世界中で食糧危機が起こった。
これは穀物などのコモディティに投機マネーが流入し、それにつられて穀物価格が高騰したことで世界中に食糧が回らなくなったことが原因であった。

日本のデパートやスーパーからバターは消え、小麦の値段は急騰した。
日本はこれまで貿易黒字が続いていたので豊富な外貨準備があり、世界中の食糧をその外貨準備で買い漁ることで飽食の時代を満喫してきた。
しかし時代は変わり、中国との貿易は輸入超過で赤字になり、貿易全体で見ても日本の貿易黒字は一時に比べて圧倒的に縮小した。

こうなっては日本の食糧事情は一変する。
お金があっても、飢餓する危険性が出てきたのである。
それにもかかわらず、政府はのんびりしたことを言っている。
農家への戸別所得補償制度なんぞ、愚の骨頂である。
なぜ日本の農家が競争力がないか、それは減反政策によって米価を維持し、農家に効率性を追求することを放棄させてきたからである。
しかし日本の政府は、表向きは「日本の食糧自給率は低い。なんとかしなければならない。」とか言っておきながら、やっている政策は農家のやる気や、効率的に農業を行うインセンティブを削ぐような政策である。
農家が少ないとは言っても、やる気のない、非効率的な農家を保護して増やしたところで自給率は上がらない。
そんなことをするよりは、法人の農業への参入を援助する法律をもっと整備するべきである。
最近の法律改正で企業の参入は以前よりはしやすくなったものの、いまだ障壁は多い。
これからの農業は第一次産業ではなく、第二次産業、第三次産業ともっと連携をとっていく融合産業でなくてはならない。

ところで国はなぜこれほどまでに農家を保護するのか。
それは農業を基盤とする票が欲しいからである。
農協が諸悪の根源である。
票を俵で買っているのだ。
政治とコメの癒着関係は古くから指摘されているが、今になってもその状況は変わらない。

日本は腐りきっている。
金のためならば、国民が目の前で飢餓していても構わないというのが今の政治である。
政治は腐っている。
政治に任せていては何も解決できない。
民間の商社などが、日本国民の為に食糧・資源獲得に邁進しなければならない。

日本は内を向いていてはならない。
このグローバル化の時代に、高い関税をかけて国内産業を保護していてはいつまで経っても産業は成長しない。
なぜ日本の製造業が発展できたか。
それはアメリカからの圧力がありながらも積極的に海外進出を図り、それによって技術を進歩させ発展し続けてきたからではないか。
いつまでもお国の傘の下でぬくぬくと保護していてはいつまで経っても産業は発展しない。
日本の技術力がまだ世界において何とか競争力を持っているうちに、さっさと規制緩和を行い農業を発展させ、競争力を付けた日本の農業をグローバル化させるべきである。

日本沈没―日本はこのままで大丈夫か・・・?

このブログを始める気になったのは、京大の講義でのある出来事が理由である。

私は今日「経済英語」という講義に出席した。
この講義は、経済学の最先端の知識が掲載されている英文雑誌を参加学生で輪読し、そのうえで翻訳をおこなうというものだ。
その授業は難易度が結構高いのであまり人気がなく、20人ほどしか出席していないのだが、その中には韓国や中国の留学生が多いのだ。
約3分の1ほどがアジア系留学生である。

授業の進行方法は、前もって指名されていた学生が担当部分の日本語訳を発表し、教授がそれに対してレビューを加えるというものだが、いかんせん日本人の発表内容がひどいのである。
ある日本人はこういった。
ここの「先生!ここの By on measure がどういう意味かわかりません。」と。
もちろん彼には一週間という膨大な時間が、予習する時間として与えられていた。
にも関わらず、彼は平然と「わかりません」と言ってのけたのである。

日本人の偏差値教育が批判されている。
しかし政府の教育再生方針も全く的を射ていないものばかりである。
ゆとり教育が批判され、かつての日本が発展し続けてきた時代の教育に回帰しようという流れがある。
「かつての」日本にとっては成功に思えた教育方針も、今の時代には全く適していない。
製造業を中心に発展を続けていた日本にとっては「均質人間」「ロボット人間」「偏差値人間」を生み出すことは理に適っていたかもしれない。
しかし今の世界の状況はかつてとは違う。
韓国や中国、インドが発展する中で、日本のように人口の少ない国はその人材の特異性で勝負していくしかないのである。
均質人間ばかりでは中国のような人口の多い国に勝てるはずもない。

偏差値至上主義の教育、詰め込み教育を受けてきた日本人学生は「わからない」ことは答えを教えてもらえばよいと考えている。
答えを求めるまでの思考の過程を重要視しない。
彼らは、先生に聞けば「答え」が与えられると思っている。
それは彼らにいくら膨大な時間がその答えを求めるために与えられていたとしてもだ。
彼らは恐らく予習をする時間があと1か月あったとしても、授業の場で先生に「わかりません。教えてください」と言うであろう。

一方、アジア系の留学生は全く違う。
彼らは完ぺきと言っていいほどまでの訳を発表する。しかも彼らの訳を聞いていると思うのだが、我々偏差値至上主義教育を受けてきた学生とは質的に異なる訳をすることが多い。
それはどういう意味かと言うと、典型的な高偏差値日本人の訳はガチガチの日本語で、英文の本質をとらえていないものが多いのだが、彼ら留学生の訳は英文の本質をとらえ、咀嚼し、そのうえで彼らにとっての第三外国語である日本語に置き換えるという荒業を何のことなくやってのけるのである。
ここで断わっておくが、彼らアジア系留学生は、英語を自国の言語に一度翻訳し、そのうえで第三外国語である日本語に翻訳しなおしているのである。
我々日本人学生は第二外国語である英語を自国語である日本語に訳すのでさえガチガチの日本語になってしまうのに対し、彼らは全くレベルが違う。
いま欧米でアジア系留学生と言うと、韓国、中国、シンガポールなどの留学生のことを指すという話もある。

このままでは日本は世界においていかれる。
我々若者が本気で国家の危機を危惧し、それを克服するために闘わなければ、日本は間違いなく沈没してしまうだろう。
私が一人でできることは高が知れている。
しかしこういった危機感を感じ、動き始める人が一人、また一人と増えていけばまだ間に合うかもしれない。
豊かな国日本を、こぢんまりとおさまった島国にしないために、今、行動を始めよう。
日本の学生のどれだけの人が共感してくれるかわからないが、私はここから国を憂う思いを発信し続けようと思う。