2009年11月19日木曜日

KYと偏差値至上主義の相関関係

空気が読めない=KYという言葉が一昔前から流行っている。
KYという言葉がなぜ今になってこんなにも流行りだしたのかを考えると、今の日本について色々と見えてくるものがある。

まずは言葉の定義から始めよう。
「K」にあたる「空気」とは一体何を表しているのであろうか。
勿論「気体」としての空気ではなく、ここでは「自分を取り巻くもの」を表す。
具体的には「その場にいる他者」そして「自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気」のことを示していると考えられる。

では続いて、「Y」にあたる「読めない」とはどういうことを表しているのであろうか。
勿論「本を読む」などの「読む」ではなく、ここでは英語の「grasp」つまり「把握する」が適当であるかと思われる。

これで「K」と「Y」の定義は完了したとして、これら二つの意味を統合してみることにする。
つまり「KY」とは「自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気を把握できない」という意味になる。
これは一般的にされている解釈であり、この点については異論は無いかと思われる。

では、なぜ今、このような言葉が流行っているのか。
それが問題である。

私が思うに、その最も大きな原因は偏差値至上主義の教育である。
極論すれば、偏差値至上主義の教育における唯一の評価基準は偏差値であり、それ以外の要素は評価対象とはならない。
人間として成長していくために必要不可欠な対人力、コミュニケーション力、プレゼンテーション力、交渉力、度胸、勇気、優しさ、思いやり、ユーモアのセンス・・・
こういったものは評価の対象にならないのである。
そうなると、偏差値だけを追い求める若者にとってはそれらのものは不必要になる。
結果、社会には「KY」という定義に適格な人間が増え、「KY」でない人は「KY」の人に出会うたびに、当人に向かって「あなたは自分を含めたその場にいる全員によって作り出されている一種の空間や雰囲気を把握できない人ね。」ということが面倒くさくなってしまい、このような造語が形成されたのかもしれない。

勿論、以上のようなことはあくまでも仮説であり、実際に上に述べたような因果関係が存在するとは思えない。
しかし、あながち間違ってはいないような気がするというのが、実際の気持ちである。

なぜならば、私は京都大学においてしばしば「KY」に出会うからである。
東京大学と京都大学は偏差値至上主義者の巣窟である。

ある授業においてのことである。
これは京大に限ってのことではないかと思うが、KYの一例としてあげようと思う。
教授によって発言を促された学生は、もごもごと一人で何かを言っている。
勿論何を言っているか、教授を含め周りの学生も分からない。
教授が「もう少し大きい声で話してくれますか?」と言っても、一向に彼の声が大きくなってくれない。
恐らく彼にとって、「発表する」ということは「伝える」ことではなく「声を発する」ことであり、声さえ発すればそれで十分であったのだろう。

また他の例をあげてみよう。
ある合同企業説明会においてのことである。
某総合商社の演説が終わり、質疑応答の時間となった。
その時おもむろにある学生が手を挙げたのである。
人事担当者はその学生にマイクを渡した。
その瞬間、彼のマシンガントークが始まった。
そこはまさに彼の独壇場であった。
その会場には他の学生も100人ほどいるにも関わらず、彼はひたすら頭でっかちの持論を展開したのである。
それはあたかも、カラオケにおいてマイク一度握ったらなかなかその手を放さない「ジャイアン」的行動であった。
彼にとって質疑応答は言葉の「キャッチボール」の場ではなく、自分の知識を披露する「ステージ」であったのだろう。

このようなことが頻発する京都大学。
キャンパス内を歩いていてもしばしば見かける常識不保持者。
日本の最高学府がこのような状況では、税金を払ってくださっている日本国民に申し訳が立たない。
日本の最高学府は今危機的状況である。

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